【03】ハンガリーの国際演劇祭
1983年、富山県は置県百年を迎えて、記念事業を立案していた。文芸座代表の小泉さんは、二度にわたる海外での演劇祭経験から、富山でも国際演劇祭を開いて、県民にあの楽しみを体験する機会を分かち合いたいと願って提案し、それが採択されて、いよいよ富山で国際アマチュア演劇祭が 開かれることになった。先達となる幾つかの演劇祭から規約などを取り寄せて、富山での規約造りが始まったが、隔靴掻痒、実態を知らないもどかしさが先に立った。丁度、1982年、6月末から7月初めのこと。ピンツェーシュ氏からハンガリーのカツィンクバルチカで開かれる「ホルバート・イシュトヴァーン国際演劇祭」への招待があって、「結婚の申し込み」を持って参加することになった。小泉さん、松さん、桐島さん、高尾さん、小泉量裕君、高尾さんの娘さん、平田、それに可西舞踊研究所の神谷さん、総勢八名のグループだった。当時まだ、共産圏の一部だったハンガリー。ブダペストのフェリヘージ空港に降り立ってみると、銃を持った兵隊 (と言ってもまだ幼い感じの残っている兵隊)が巡回している。用を足しに入ったトイレでは、便座の枠が木製で、ひどく汚れているのが目に付いた。二台の車に荷物と共に、文字通り詰め込まれて、空港を後にして走り出したときは、ブダペストの市内の建物が、やけにくすんだ感じだったし、うらぶれて物悲しいとはこんな様かな?と感じさえした。見渡す限り続いている、なだらかに起伏する畠の中を、車は東に向かって走る。折から黄色く熟れた麦の刈り取りシーズンだが、畠に人の気配はない。そして急に麦畑が切れて、ヒマワリが視界一面に広がってくる。単調な眺めである。村落の中にはいるが、人の姿は矢張り見えなかった。丁度夕食時間なのか?一、二度、黒い服を着込んだ老婆らしい女性が、十字路の隅で顔を寄せて立ち話をしているのを見かけただけだった。薄暗くなっていく光景の中で、裸電球の光が赤く見える。遠くの丘陵地に月が昇ってきた。まん丸な月だった。単調な車の走行にウンザリして、腰も痛くなってきたが、まだ車はノンストップで走っている。いつまで続くのか・・・と、真っ暗な角を曲がったとき、急に光が当たって、けばけばしいジャズ音楽が耳に入ってきた。遂にカツィンクバルチカ到着だった。


割り当てられた宿舎は青少年の宿泊訓練所といったもので、各地から集まった人で一杯。小さくて固くて噛みごたえのするパンにバター一片、パプリカとソーセージなどの炒め物、うす黄色のテー(茶とは言いながら、僅かな蜂蜜が入っているのか、ほの甘い)、その他に何があったか思い出せないが、全般的に言って質素なという形容詞がつけられただろう。でも、朝目覚めた宿舎の窓の外には、雀が囀っていたし、通りにはトマトなどの野菜を売っている荷車の店が出ていたし、生活の活気は感じられた。 早速、両替にと訪れた銀行では、支店長というどっしり太った中年の女性に、奥の部屋に招き入れられた。どうやら、こちらの差し出したトラベラーズ・チェックを調べているようだ。小さなコップにどろっとしたコ-ヒーの持てなしを受けたが、大変な好待遇であるらしい。結局、アメリカ系のものは帳簿に記載してないから駄目で、こちらの東京銀行のものがOKとなり、思わず小泉さんと顔を見交わした。またドルの両替でも、額面の大きいものは、こちらで誰も使う人が居ないからお断りという話であった。一方郵便局でも多量の切手を買い求めに来たと、大恐慌が起こったらしい。みんなで富山へ便りを出そうとして、切手を求めたからである。全く「弥次喜多珍道中」的なエピソードをまき散らしての旅であった。しかし、演劇祭のほうは本格的でハンガリーのセゲドから来た大学生はイヨネスコの 「禿の女歌手」を演じて巧みであったし、ドイツの公演もあった。余り他のものを見ることは出来なかった、というのは、ピンツェーシュ氏の骨折りで ラジオのインタービューがあったり、新聞記者との応対があったりで、時間を取られたからである。午後に公演があって、夜はそれを巡っての論評会がある。ハンガリー語は全く分からないから、練習の為もあって、他の劇団の論評を聞きに行くことはしなかった。


文芸座の公演は満員の盛況であり、盛んな拍手を貰ったが、夜の論評が気に掛かった。何でも前のドイツのものには厳しい評価が下されたとかで、ピンツェーシュ氏も心配そうである。夕食を終えて、会場に行くと、ここも沢山の人たちが集まっている。(ハンガリーの男性は多くが髭を生やしているので、一見、厳めしく見える。だから、にっこり笑うと、対照的に、愉快そうに見える。)フロアからの質問をブダペストから来たというジャーナリストが英語に訳してくれる。それをこちらが日本語に直し、それに小泉さんが答えると、逆の手順で、英語に直し、それをジャーナリスト氏がハンガリー語でアナウンスする。手間暇の掛かるやり取りだったが、緊張しているこちらを和らげるような、つまりそんなに厳しくない、むしろはるばる来てくれて、面白い劇を見せてくれて有り難う、という雰囲気を感じさせる応対であったし、みんなよく耳を澄ませて聴いてくれていた。
ホルバート・イシュトヴァーン国際演劇祭では、各劇団の公演について、粗筋と出演者などを印刷した一枚物の資料が出来ていて、観劇するものは入り口でそれを一部ずつ 持ってはいるという形になっていた。(この形は富山で採用されてきている。)ここで開かれた国際アマチュア演劇連盟の理事会で、翌年に予定されていた富山国際アマチュア演劇祭開催が国際アマチュア演劇連盟の行事の一つとして承認された。従来ヨーロッパとアメリカでしか開催されたことのない国際アマチュア演劇祭が、日本で、いや東洋で初めて開催されることが決まったのであり、その意味で、画期的なことであった。期日は1983年9月22日から26日までと決まった。