劇団文芸座の海外公演

【01】劇団文芸座の海外公演

富山国際アマチュア演劇祭実行委員会会長
平田 純

振り返ってみれば、二十一年前のことになる。準備段階の困惑振りを入れると、二十二年である。いや、そもそもの種まきを言えば、1976年だから、二十八年前に遡ることになる。ab ovo「卵から」という語句があるが、これはローマ時代、食事は卵から始まって、 林檎が出て終わりになったことに由来するそうだが、「卵」から全てが始まると考えても、別に差し支えはない、有精卵である限りは。 この「富山国際アマチュア演劇祭」の「卵」が受精したのが、1976年だったと言えば、訝る人が多いだろう。1983年の事業だから、幾ら何でも抱卵期が長すぎると。だがそれは事実である。1977年5月、アイルランドのダンドークで開催される「ダンドーク国際演劇祭」に、戦後いち早く富山で活動していた劇団文芸座が日本代表として出演することになった。初めての海外公演というので、みんな張り切って準備を整えていたが、何しろ、その当時、連絡は手紙が主で、書いては返事の来るのを待つだけ。もどかしいこと限りなし。まして、上演演目の「夕鶴」と「三年寝太郎」のセットは向こうが作るというので、その出来栄えが気に掛かる。民話の雰囲気を出すためには、バックが大きくものを言うから。途中から手紙を解読する手助けをしていた私に、セットの色についての指定を書き送るように 頼まれたが、ことは重大であり、まして、色については微妙な色合いや陰影に関して無知である当方には、それは余りにも荷が重すぎた。窮余の一策で、セットの模型を作って着色し、それを送ったら、と無責任な提案をした。文芸座の代表小泉博さんは、直ぐにそれを採り入れて、久郷秀男さんの制作に掛かる模型を携えて、ダンドークに飛んだ。1976年の暮れか、翌年早々のことであった。それを見せられた向こうの人たちは、凄い出来栄えに、マジック・ボックスと激賞し、東洋から初めて参加する文芸座への期待を 大きくした(らしい)。

模型舞台はマジックボックスと激賞を受け
「来た、見た、勝った」最高賞を掲げる劇団文芸座代表 小泉博

果たして、海外の演劇祭に初めて参加した劇団員一同にとって、それは文字通り「祭典」であったようだ。言葉の壁にまごつきはしても、それは初めだけ。演劇人としての一体感と、アイリッシュ・ホスピタリティと言われる心のこもった応対に、すっかりくつろぎを覚えたのだろう。公演は得心のゆくものであった。「祭り」ではあっても、ここでは出来栄えについて優劣がつけられる。順次結果の発表があって、最後に文芸座が呼ばれた。「プレミエール・アワード」を 与えると告げられ、客席は立ち上がって拍手喝采。登壇して受け取り、喜び勇んでいる仲間の姿を客席に探した小泉代表は、静まりかえっている文芸座の連中を見て驚いた。どうしたんだろう?後で分かったのだが、通訳をしてくれた人が、不慣れだったので、「多分、あれはお情けで呉れた特別賞なんでしょう」と説明したと言うことだった。審査員の一人は「君たちは来た。ボクたちは見た。君たちは勝った」と シーザーの言葉を捩って評しさえしてくれた。この時、アイリッシュ・ウィスキーの味を覚えた団員たちも多かったのではなかろうか。